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 「名もなき詩」

 「あ、真紀。見てごらんよ。今夜は、満月なのかな。」
すっかり暗くなった高速を、恋人は結構なスピードで車を滑らせていた。空に
そびえているライトが、道路のカーブに沿って、きれいに進路を描いている。
その両側の道しるべの間に、今聞いた通りのまん丸い月が、まっすぐにわたし
を見つめていた。
「本当。きれいね。」
わたしは、しばらくフロントガラスに近付いて、大げさにその月を眺めていた。
そして、また同じ事を思い出していた。隣に、どんなに好きな人がいても、満
月の日には、いつも達也の事を思い出してしまうのだ。

 大学の同級生だった達也と、お花見に行ったときのこと。誘った友達には、
結局みんなフラれ、わたしは、仕事中の彼を携帯で捕まえた。
 カラーコピーの営業の仕事を、真面目に、でも、いい加減にこなしている彼
は、約束の時間に30分位の遅刻で現われた。
「あー、腹減ったあ。弁当食いにいこ。」
「うん。おいしい、って評判のお弁当、買っといたよ。」
 学生の頃、さんざん歩いた公園までの道のりを、二人で並んで歩いた。春め
いた懐かしい風と、ちらほら見える桜の霞が、わたしの気持ちを高揚させた。
うまいポイントを探し当て、わたし達は、やっとこさ、少し遅いランチにあり
ついた。
 「俺、桜って好きなんだよなあ。」
へえ、初耳。達也と同じように、わたしも、頭上のその花を見つめた。枝越し
に青い空を透かして、隣に座っている人のことをちょっと考えた。少しは元気
になってくれたかな?最近の達也は、電話をする度に、声を聞いただけでもわ
かる程、いつも疲れてきっていた。それで、ちょっと誘い出してみようかな、
と思ったのだ。
 「とにかく、今日はのんびりしようよ。」
と、わたしがあんまり元気にのびをしながら言うので、
「ちょっと待て。真紀は休みだろうけど、俺は仕事中だ。」
と、とりあえずの目標物を広げ始めた。わたしも、評判のお弁当を競って広げた。
 「ま、いっか。仕事なんて。どーでもいいや。」
たった今広げていたお弁当を、一口運ぶ前には、怠け者の発言は、ずいぶん変
わっていた。達也らしいや、とわたしは肩をすくめて笑ってみせた。
 あれから3年もたったのに、こんなところで、達也と二人でお弁当を広げて
いるなんて、ちょっと不思議な気もする。大学を卒業するとき、酔った勢いで、
友達に言われた。「達也は、真紀のことが好きなんだ」って。そんなこと、本
人の口から聞いてもいないのに、わたしにどうしろと言うのだ?確かに、そう
かな?と思えるようなことは何度かあったけれど、達也とわたしの間には、そ
の後も、何もなかった。
 ま、そんなことはどうでもいいのかもしれない。今、わたしの隣で「うまい」
を連発してささやかなご馳走をかきこんでいる達也を見たら、そう思えた。
「よかった、あなたの笑顔が見られて。」
達也は「お前、熱でもあるんじゃないか?」と箸を止めてこちらを見た。
 ふと、遠く彼方から戻ってきたかのように、急に達也が話を始めたのは、公
園を包んでいた温かい風が、肌寒くなり始めた頃だった。
「俺、会社、辞めようかな。」
「えっ?そんなに大変なの?」
「もう、魅力を感じないんだ。会社にも未練はないし。」
達也は、ずっとそんなことを心に置きながら仕事をしていたんだ。きっと、真
面目で責任感の強い達也には、とっても苦しいことだったろう。でも、今、彼
の中で葛藤しているもの、彼から、笑顔を奪った原因を見ることができて、わ
たしは少しほっとした。そう言えば、今まで、大切なことは、何も話してなん
かくれなかったっけ。
 いろんなことを、達也は、わたしに吐き出した。仕事のこと、何もかも投げ
出してでも一緒になりたかった昔の恋人のこと、彼の親のこと。そして、こん
な会社でも、素敵な人にも巡り逢えたこと。わたしは、全身を彼の話に傾けた。
ひとことひとことに、大きくうなずいて。達也の顔は、ずっと曇ったままだっ
た。学生の頃は、あんなに笑顔の素敵な人だったのに。わたしには、なんにも
できない。そばにいて、一緒に考えてあげることも、笑い合うこともできない。
 「でもね、これからのことは、”なんとかなる”って思ってる。バイトしな
がらでも、自分のことをゆっくり考えてみようかな、ってね。一度、全てをな
くしてみないと、自分が本当にどこにいたいのか、よくわからないんだ。今は、
そういう時なのかもしれない。」
決して諦めではない、達也の言葉は、なんだか頼もしくも思えた。
「うん、あなたなら大丈夫。」
あんまりうれしくって、自分で言うのも変だけど、満面の笑顔でわたしはそう
言った。
「お前って、そうやってみんなに愛を与えてるんだな。」
達也は、今まで見せた事のない穏やかな微笑みでわたしを見た。3年前の友達
の言葉が、ちょっとだけ頭をかすめた。
 「もう、行かなきゃ」と、彼は立ち上がった。わたし達は、少しだけ遠回り
をして、桜のトンネルの方へ向かった。ズボンのポケットに両手を突っ込んだ
まま、達也は何か口ずさんでいた。「何?」と耳を近付けると、「名もなき詩」
だった。
「カラオケのね、練習。この唄、好きなんだ。」
そう、いつの間にか築いていた自分らしさの中で、今、必死にもがいているの
は彼も同じだ。風に踊らされている花びらの中、二人で唄いながら歩いた。今
まで感じたことのなかった温かい空気が、その時、わたし達の間に通いあって
いたような気がした。
 別れ際、今朝の母の言葉を思い出した。そうだ、今夜は、満月だ。
「ねえ、達也。今夜、10時に空を見てね。わたしも同じ時間に見上げるから。」
「何、それ?なんかのおまじない?」
「今夜は、満月なの。いくら大変だからって、お月様を見る余裕ぐらいないとね。」
また、さっきと同じように、穏やかに達也は笑ってみせた。

 あの時の唄をわたしは、夜空に向かって口ずさんでいた。わたしが見つめて
いるこの月は、きっと、今も達也の空に、愛を運んでくれているだろう。




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中山朋美Mail:Tomomi Nakayama