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   「フレンチトーストの朝」

「朱美、早くしないと遅れるよ。今日、仕事、初日なんでしょ?」
京ちゃんのやさしい声で、わたしは、お気に入りのソファーベッド
で目を覚ました。
 ああ、そうだ。昨日は、あのままここに泊めてもらったんだっけ。
ふんわりとした甘い匂いに包まれて、わたしは、またソファーベッド
にぽふっ、と倒れ込んでみた。
 朝がからっきし弱いわたしは、狭いキッチンで、わたしの為に何やら
朝食を用意してくれている彼女を、ぼーっと見つめていた。
 京ちゃんは、柔らかな朝日を体いっぱいに浴びて、まるで空から
降りてきた天使のように見えた。

 傷みに包まれていたわたしの心を、ずっと励ましてくれていたのは、
幼なじみの彼女だった。好きで好きでどうしようもなかった彼と、別れ
なくてはならなかったときも、身一つで東京に出てきたわたしを、彼女
は笑顔で迎え入れてくれた。
「朱美は『自分にはもう何もない』って言うけど、そんなことないよ。
 まだ気が付いていない素敵なことが、たっくさんあるんだから。」
京ちゃんは、そう言って、泣きはらすわたしを、眠るまで見守っていて
くれたっけ。京ちゃんが、くるんとしたかわいいまつげをゆっくり伏せて、
少し微笑んで見せる度に、わたしはなんだか、やわらかく、やさしい
気持ちになっていった。

「あー、おいしそうな匂い!」
顔をタオルで拭きながら、わたしはキッチンへ向かい、京ちゃんの手元を
覗き込んだ。
「ふふーん。京子特製フレンチトーストだよーん。すっごくおいしいんだから。」
「へえ、京ちゃん、シャレたもの作れるのね。お得意メニューなの?」
「うん、まあね。」
 あんまり料理が得意ではない京ちゃんが、「得意メニュー」なんて、どこで
覚えたんだろう?ま、一人暮らしも5年もすれば、得意物のひとつやふたつ
はあるだろう。これから一人暮らしを始めるわたしとしては、ちょっと気に
なるレシピだった。
 テーブルに並べられた特製フレンチトーストは、ふわふわしていて、とって
もおいしそう。「いただきまーす」の声も、思わず弾んでしまうほど。
そういえば、京ちゃんとこうして二人っきりで、顔を合わせて朝食をとるのは、
この長い付き合いの中でも、初めてかもしれない。
「ふーん、京ちゃん、東京で一人で、こんなにおしゃれな朝を迎えていたのね。
 それとも、いつもは誰かさんと一緒だったりして。」
京ちゃんは、意味深な微笑みを浮かべた。そうして、やわらかくまつげを伏せて、
そのまま瞳を、目の前のお皿に落とした。
「ちょっと前までは、そうだった、かな。で、その人に、このトースト、教わったの。」
えっ??
ちょっとひやかしのつもりで言ったのに。それに、その彼とは、結婚の約束も
していたんじゃなかったっけ?
幸せに包まれているとばかり思っていた京ちゃんの哀しい言葉は、あまりに
あっけらかんとしていた。返事に困り、わたしの視線は、天使の笑顔を持った
京ちゃんに釘付けになってしまった。

「いつもね、約束を守ってくれる人だったの。本当に小さな約束も。
 彼ができる料理はね、フレンチトーストだけだったの。『俺の作るフレンチ
 トーストは、評判がいいんだ』って言ってね。わたしはそれまで、食べさ
 せてもらったことがなかったの。だから、密かに、彼に『いつか食べさせてね』
 って約束を取り付けてね。でも、ずいぶん昔の約束だったから、もうとっくに
 忘れてると思ってた。もう、今となっては、あれが最後になってしまったけど、
 彼がここに来た日、いつもは寝坊助のくせに、顔を洗って起きてきてね。
 『卵、ある?あと、牛乳も。』
 って言って、手際良く、卵をガラスのボウルに割ってね、かちゃかちゃ溶き始めて。
 すぐ横で、ずっとその手を見てた。大きくてね、とってもきれいな手だった。
 ずっと見慣れていた手のはずなのに、初めて見るような美しさだった。
 彼は、テレ屋でね。わたしがじっと見つめているのがわかると、急に話し出すの。
 『男の料理ってのはだなあ、こんなもんなんだ。分量も適当。まあ、
  強いて言えば、この、色加減、かな。』
 だって。おっかしいでしょ。」

そう言って、京ちゃんは、思い出の味を一口運んだ。
「やっぱりおいしい」
そう言いながら、また天使の微笑みで話を続けた。
「このテーブルにね、今と同じように腰掛けて、わたし、『おいしい!』
 を連発してたの。その度に彼が、
 『だろ。俺が作ったんだからな。』って。
 あー、一緒に暮らしたら、毎日こうなんだろうなあ、って思った。
 そりゃあ、二人とも満面の笑顔でね。幸せって、こういうことなんだ、
 って、勝手に思ってた。わたしが、
 『生まれて初めてフレンチトーストを食べた。』って言ったら、
 『何、生まれて初めて?そうか、そりゃあ良かった。』って、すっごく
 うれしそうに笑ってくれた。あの笑顔は、きっと一生忘れないだろうなあ。
 わたし達が一番幸せだったとき、一生忘れられない笑顔を残してくれたのが、
 こいつ。今、朱美が食べてる、こいつ。
 彼はね、どんなに大変でも、朝ご飯だけはちゃあんと食べなさい、って
 いつも言ってた。彼とダメになったときも、こいつだけは食べられた。
 初めの頃は、作っていても、食べていても、涙ばっかり出てきて仕方なかった
 けど、だんだん上手になって、どんどんおいしく作れるようになったの。
 彼も言ってたけど、おいしいもの食べてると、幸せになるじゃない?
 わたしは、毎日、少しずつ幸せになっていってたのよ。
 このキッチンで、光をいっぱいに浴びて笑いかける彼は、わたしに元気の
 かけらを残していってくれた。だから、わたしは大丈夫なの。」

話終えると、京ちゃんは、黙り込んでしまったわたしの肘を、トンッとつついた。
「今度は、朱美にも覚えてもらわないとね。”元気のかけら”だから。」

ダメになったなんてこと、一言も言ってくれなかった。わたしは、自分の
ことで精いっぱいで、京ちゃんに頼ってばかりだったこの何カ月かを振り返った。
「わたしの事でごたごたしてる間?」
「ううん、そんなことないよ。朱美を励ましてる間に、わたしもずいぶん
 救われたんだから。それに、わたし、彼にはとっても感謝してるの。」
京ちゃんは、テーブルに肘をついたまま、ミルクのカップを、
両手で温めるよう持ち直して、笑って見せた。
そのとき、起き抜けで、すっぴんの京ちゃんが、とっても強く、
美しく見えた。

「あ、朱美。時間、時間。」
「ああっ、初日から遅刻じゃ、シャレにならないからね。」
わたしは、どたばたと着替えを始めた。京ちゃんは、そんなわたしを、
カップを持ったまま眺めていた。
かすかに、遠くを見つめるように微笑みながら。
不意に、その姿を見て、わたしは思った。わたしなんかよりも、きっと
哀しい別れをした京ちゃんの心は、本当に癒えているのだろうか?
今までわたしは、彼女の笑顔に、勇気に、いつも支えてもらってきた。
でも、彼女に何ひとつしてあげていないんじゃないのだろうか?彼女は、
誰かに、何かに、いつも支えてもらってるんだろうか?

 玄関で見送ってくれる京ちゃんに、わたしはクルリと振り返って、唐突
に切り出してみた。「京ちゃんは、今、幸せ?」
急な問いかけに、びっくりして目を丸くした彼女は、少し「うーん」と言っ
てから、まっすぐに答えた。
「幸せだよ。」
朝日をいっぱいに浴びた天使の笑顔には、きっとあの日の彼の笑顔が重なっ
ているんだろう。
彼女を、いつも見守っていた、幸せな笑顔が。




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中山朋美Mail:Tomomi Nakayama